東濃檜物語

ブランド材「東濃桧」

先人達から受け継がれて来た山林

 一般に物資の流通は歴史と共に移り変わって来ているのは周知の通りである。木材の流通も全く同じで、鉄道の開設と道路の開発が遅れた当地方では重量物である木材の運送は、もっぱら河川を利用しての流送であった。
 したがって小径木は流送中に折損してしまうので、中目(20センチ)上の立木が伐採搬出され、小径木はそのまま山に残され、枝葉のない良材が残されたようだ。心ある先人達が自生の苗木を補植し、又樹間に自生した苗木がそのまま天然に育って東濃桧の源となったのではないかと思われる。
 ちなみに名古屋営林支局の記録に残っている、営林局で最も古い歴史を持つ植林立木が小坂営林署の林班に3ヘクタール程残っている。「天保林」と云い、天保時代、幕府の役人が植林を条件に木炭を焼かせた山林と云われ、苗は自生のものが植えられ桧が主体であるが杉、椹も混立して更に立派な林になっている。 又七宗山でも町有林の裏側の山に同じような条件で当時の山役人、多々羅氏が杉を植林させたと云われる杉林があった。伊勢湾台風で全部根こそぎ倒れてしまったが、私共組合で当時払下げを受け伐出した事がある胸高直径1メートル以上、材長50メートルを越え、実に長大木の良材であった。いかに植栽の立木は素直に成長するかが伺われた。

当時から評価が高かったこの地方の桧

 里山に於いても薪炭林の他は天然の良材が多く、地場消費の材は木挽杣に依って板、角材にされていた。その頃より当地方の桧は東濃桧として建築用材・造作用材・木工用の良材として重宝され、造作用の長押・鴨居・建具の框材などに高値で取り引きされて来た。
 国鉄高山線の開通に伴い、名古屋・岐阜方面に主として丸太で大量に出荷されるようになり、その後昭和の初期より自動車輸送が盛んになり、時を同じくして製材も丸鋸から帯鋸に変わり、その工場が白川・赤河・黒川の川筋に順次設立されて主として板材が生産されるようになった。又建築用材も挽かれ、特に桧は色艶・目合いが良く、柱材には最高の材として評判が高かった。
 戦争中は陸海軍用材をはじめ、公用材が主で民需は極度に制限されて材の良し悪しは余り問われなかったが、戦争復興材として当地方の木材製材業は活気を帯びて来た。戦後の復興も一段落した頃より木材にも一層良材を求められるようになり、総ての商品がそうであるように消費者本位の流通が強く要求されるようになった。売り手市場より買い手市場へと変わって来たのである。

商品価値を高めるための努力銘柄材としての地位の確立

 消費都市では木材製材品の市売市場が次々と開設され、各生産地の材が品を揃えるようになった。商品価値を高めるため商標と共に産地材の刷込を行うようになって、「東濃桧」のマークはその頃より刷り込まれるようになったと思われる。勿論産地の材との区別をはっきりするためであるが、前記したように色艶・目合等、優良な材である事で消費地では好評を得て売れ行きも良かった。
 木材市場でも買い手の選別買が強くなり、生産者は一層難しい厳しい時代を迎えるようになり、更に材の商品価値を高めるため自立の研究、機械の整備、又製材技術を高め、材の表面をブラッシングする等、良材の生産に努力するようになった。住宅の建設も本建築が行われるようになり、より一層の良材を求められるようになって来たのであり、「東濃桧」はそんな状況にあって大変有利な販売体制を得る事が出来たと思われる。
 昭和四十年半ばと思うが、林野庁の林業白書によって「東濃桧」が銘柄材として紹介され、その位置付けが確実なものになったのは云うまでもない。「東濃桧」は、戦後格付けされた唯一の銘柄材である。製材業者は消費者の期待に応える為にも寸法の確実性、曲り狂いを矯正するため最初の荒挽の寸法を大きくし、乾燥(=天然乾燥から現在は乾燥機に依る人工乾燥)後、二度挽をする。この二度挽も削り代を残して三ミリ?五ミリ大きくする等、他県に先駆けて良材の生産に励んで来た。そんな製材業者の努力があって銘柄材としての名声を得るようになったと思われる。林業白書にも「東濃桧」は製材技術に依って確立された流通銘柄材であると紹介されている。

品質の均一化と安定供給のために

 先人が残してくれた良品質な立木を原料として「東濃桧」の銘柄材を生産している製材業者であるが、決して豊富な資源があるとは云えないし又、コンスタントに良材が地元のみで入手出来ない。業者は「東濃桧」の銘柄材に相応する良材を求めて県内はもとより県外まで各原木市場をまわり、連日の如く入荷に努力している現状である。年々良材も減少し、手当も真に難しくなって銘柄材の維持に困難を来すようになった。加えて他県の桧製材産地でも「東濃桧」の刷込をすると製品の売れ行きがよいためか、競って「東濃桧」のマークを刷込み、市場への出荷をするようになった。後記の委員会の調査で判明した結果、本場岐阜県産材よりも他県産材の方が「東濃桧」のマーク刷込材が多く市場に出廻る状態で、従って「東濃桧」の品質にも大変悪い影響を及ぼすような恐れが出て来た。
 そこで、岐阜県林政部では現状を察知していただいて、銘柄材持続及び品質維持のためにも、行政の側からも昭和五九年度から「東濃桧産地名柄材推進協議会」を発足。委員会を設けて補助事業として県木連を通じ調査活動部等を続けてまいり、平成三年、「東濃桧品質管理センター」を発足。認定工場制度を創設して現在三七工場が加入し、岐阜県独自の本場物「東濃桧」のラベルを作り、材面に貼り、他県産材とはっきり区別のできるよう全工場がラベルを使用し、又全工場がJAS認定工場としての認可を得て品質の向上と銘柄材の生産普及のために年数回の勉強会を開き、目揃会等も行って各工場共出来るだけ等級の格付けを均一にし「東濃桧」の向上を計り、消費者の要望に応えると共に経営の安定を計っている。

決して誇れない林業の町としての現状

 以上「東濃桧」の銘柄材の過程について私なりの考えを述べたが、東濃桧産地の中心地である白川町の林業家も銘柄材の普及によってどれだけ多くの恩恵を受けられて来られたか、計り知れないものがあると私は推察する。一般的に銘柄材とは、それに足りるだけの優れたものであったとしても供給がずっと持続しないもの又は量的にまとまらないのでは、市場の需要を充足させる事が出来ないのであって、銘柄材から遠ざかってしまうのではないかと憂える。 そこで、町面積の九〇%近くを有する白川町の山林資源を行政の面からも又林業家一人一人が自覚して振返って見たらどうだろうか。山林の経営に際し、「それ林道を造れ」、「それ苗木の補助、下刈りの補助、間伐の補助、病虫害の補助」と余りにも行政に頼る事ばかりが多く、せっかく多額の補助で開設した道路の両側の便利の良いところですら植えてはみたものの、間伐もおろそか曲り木も見られ、枯枝一杯の立木を見る時、林業の町として情けなく思うのは私一人だけだろうか。

もっと山を愛する事で維持される「東濃桧」ブランド

 今、白川町の木材市場では天然の良材、又枝打等で良く手入の行き届いた良材は立方メートル当り五〇?六〇万円もするのに、手入不良の曲り材、死節の多い材などは僅か十分の一以下の立方メートル当り三?五万円もすれば良いところである。
 白川町森林組合員は現在二二〇五人と聞く。今組合員全員が挙って山の手入れに励んだならば白川町の資産は山によって大きく築き挙げられるであろう。一ヘクタール一億円の山作りも間伐枝打等密度の高い手入れが行われれば決して夢ではなく、そんなに難しいものでもない。ただやるかやらないかだけの事である。白川町の山林約二万ヘクタールの二分の一がヘクタール当り一億円の山に仕上がった暁には白川町は実に一兆円の資産が出来る事になる。私は今迄各地の有名林業地を見せていただいたが、白川町の山ほど条件の良いところは他に見当たらなかった。土質に恵まれ雨量も適当で、雪害なども全くないと云ってよい。雪起作業の手間も不必要で雪折等の害もない。これ程優良材生産に適した土地柄で、何故もう少し山への愛着が出来ないものかと不思議にも思われる。
 労働力不足。きつい、きたない、危険。三K事業の長たるものにあげて見向きされない山林がいかに多い事か。環境悪化の現在、人々が求めるきれいな空気と水が豊かで又、静かな中で鳥の鳴き声も聞こえ、自由で何の束縛も受けない山仕事。そして何年か後には巨額の富を生み出してくれる山林を何故見向きもしないのか。立木には、日曜も祭日も盆正月も昼夜の休みもなく成長を営み続けている。そして水を貯え、酸素を供給し、降雨期の災害から山を守り、私共人間に限りない恵みを与えていてくれる。  行政はもとより関係団体も山林家それぞれがもう少し山を愛し、郷土の発展と行末を考えて、折角確立した「東濃桧」ブランドを維持し続けたいと願う。そして、皆が一緒になって山林の育成に弛まない努力を続けたならば、最も身近にある地場産業として「東濃桧」の銘柄は益々有名になり、収益も多くなり、豊かで明るい郷土が出来るのではないか。山林関係者として行政の一段の奮起を望むものである。

白川町林業情報誌「一歩ニ歩山歩」より 一九九三・夏


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